雑学界の権威・平林純の考える科学

■上手(かみて)が日本では「自分の左手」になり、西洋では「自分の右手」になった理由


 日本では「(自分の)左側」が、「優位な側」である上手(かみて)です(参考:ひな人形の「男雛と女雛が逆になる」までの詳しい歴史)。 もちろん、その逆方向である自分の右側は、「位が下」となる下手(しもて)です。 それを「眺める側」からの向きで言い換えると、向かって右側が上手で、向かって左側が下手、ということになります。 (自分の)左側が「優位」と捉えられるようになった理由には諸説ありますが、よく言われる理由が「南面した時、太陽が上り来る方向=東が、左側になるから」という理由です。

 日本とは逆に、ヨーロッパ・中東などの国では、(自分の)左側ではなく右側が「優位な側」とされます。 なぜそうなったかには…これも諸説ありますが、右利きの人が多いので「右側が強い側(左側は弱い側)」とされたとか、「太陽がのぼり来る東を向いた時、太陽が日中指す方向=南が(自分の)右側になるから」という理由が挙げられます。

 日本でも西洋でも、優位・尊ばれる側が「太陽が昇る東」や「日中に太陽が位置する南」に由来した、つまり「太陽」を崇拝する心に由来して「有意な側」を決められたという由来は、とても興味深いところです。そしてまた、同じ太陽崇拝に由来したのに、東を向くか(そして南を指すか)・南を向くか(そして東を指すか)という違いが上手(かみて)となる側を左右逆転させたというのも、非常に面白いのではないでしょうか。

■「右の頬を打たれたら、左の頬を…」に隠された意外な秘密


 「右」や「左」と言えば、「右の頬を打たれたら左の頬をも向けなさい “But whoever strikes you on your right cheek, turn to him the other also.”」という言葉があります。新約聖書マタイ福音書5:38-42 の中に書かれているイエス・キリストの言葉です。 「右と左が、歴史の中でどのように捉えられてきたか」を考えると、この言葉は実はとても奥深い言葉です。

 古代ユダヤ世界では、ヨーロッパ・中東諸国では今でも一般的なように、左手は「悪い側」とされていました。そして「悪い左手」は、自分の主張などを行う際には使うことができませんでした。そして、自分より「階級・地位」が下である者に対して、相手を侮辱・叱責する時には、「右手の(手のひら側でなく)甲で相手の頬を打つ」というやり方がされました。

 右手の甲で人の頬を打とうとしたら、やってみればわかりますが、相手の右頬を打つことになります。つまり、あなたが「右の頬を打たれた」という状況は、相手が「あなたの階級・地位が下であると捉えつつ、あなたを貶め・侮辱した」ということを意味するわけです。それが、「右の頬を打たれたら、左の頬をも向けなさい」が指す前半部分の状況です。

 それでは後半の「左の頬をも向けなさい」は、一体どういう意味・状態になるのでしょうか。あなたの右頬を打った相手に、あなたが「左の頬を向けた」ら、一体どうすることができるでしょう? 相手があなたの頬を打とうとしても、相手は(悪い側の)左手は使えませんから、右手であなたの左頬を打つことになります。もちろん、あなたの左頬を右手で打とうとすると、相手は右手の甲ではなく、手のひらで打つことになります。

 しかし、(自分より相手が下だとみなす行為である)手の甲で打つのではなく、「手のひらで相手を打つ」ということは、相手にとって「自分とあなた」を対等だとみなすことです。つまり、「自分より身分が下」だと蔑んでいる相手を、「自分と同等の人間である」と認める行為となってしまうわけです。

 つまり、「右の頬を打たれたら左の頬をも向けなさい」という言葉は、「相手の暴力・差別に対して服従・無抵抗になれ」という意味では決してなく、「相手と自分は対等・平等だという態度・意志を示せ」という言葉だった、というわけです。

 この言葉、新約聖書マタイ福音書に書かれている「右の頬を打たれたら・・・」は、旧約聖書の「目には目を、歯には歯を。手には手を、火傷には火傷を、打ち傷には打ち傷を」 という言葉と対比されることが多いため、「無抵抗主義を示す言葉」に思われがちです。しかし、「右と左の歴史」を遡り眺めてみると、無抵抗どころか根本の意味での大きな抵抗を示せという言葉だったのです。

■当たり前のことや見過ごしがちなことも、理由や意味を深掘りすると、新鮮で意外で面白い!


 あたりまえのような言葉や作法も、それらが生まれた理由や経緯を知ると、そして、それらの意味を深掘りしてみると、とても面白く・興味深い内容だったりします。今回は、「左右の順位にまつわる歴史的理由」を振り返り、「右の頬を打たれたら左の…の本当の意味」を考えてみました。

 宮澤賢治「銀河鉄道の夜」は、「少年ジョバンニ*が、灯籠流しが行われた夜に丘の上から銀河鉄道に乗り、級友カムパネルラと天空の旅をする。丘の上でジョバンニがひとり気づくと、カムパネルラは川で人を助けた後に行方不明になったということを知る」という話です。

 主人公の級友であり、(亡くなった時に)主人公と銀河鉄道を共に旅をしたカムパネルラの名前は、イタリア・ルネッサンス時代の哲学者「トンマーゾ・カンパネッラ** Tommaso Campanella」からとられている、と言われています。宮澤賢治が盛岡中学(現・盛岡第一高等学校)と盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)に在学していた頃、大西 祝 著「西洋哲学史」(初版は明治36年)を読み、そこに書かれていた「カンパネッラ」に強く惹かれ、銀河鉄道の夜の「主人公と別れ・亡くなった級友」の名前をカムパネルラとした、というのです。当時の他書物では(それ以降も)、トマソ・カンパネッラの名前がカンパネラ(カンパネッラ)と書かれているのに対して、大西 祝 著「西洋哲学史」の記述のみが(宮澤賢治が銀河鉄道の夜で書いたのと同じ)カムパネルラと書かれている、というのがその傍証のひとつです。

 実は、カムパネルラ(トンマーゾ・カンパネッラ)の名前は、ジョバン・ドメーニコ・カンパネッラ Giovan Domenico Campanella でした。トンマーゾというのは、後に修道士になった時に付けた聖職者名です。つまり、カムパネルラの名前はジョバン(ニ)で、ジョバンニは、カムパネルラでもあったのです。

 問題は、カムパネルラの名前がジョバン(ニ)でもあったことを、それを果たして「銀河鉄道の夜」という物語を書き綴った作者、宮澤賢治自身が知っていたかどうか?です。宮澤賢治が読んでいたとされる大西 祝 著「西洋哲学史」に、カムパネルラの幼名が書かれていたなら単純明快、「知っていた」で決まりです。…しかし、話はそう単純ではありません。なぜかというと、大西 祝 著「西洋哲学史」のカムパネルラに関する記述には、ジョバンといった幼名は一切書かれていないからです。

 右に貼り付けた画像は、大西 祝 著「西洋哲学史」でカムパネルラが解説されている頁です(左上に太字でカムパネルラと書いてあるのがわかるでしょう)。実際に確認してみても、幼名はおろか、トンマーゾという名すら書かれていません(もちろん、この次頁にも書かれていません)。「西洋哲学史」にカムパネルラについては2頁にわたり書かれていても、そのカムパネルラの名前がジョバン(ニ)でもあったことは触れられていないのです。

 宮澤賢治が他書籍からカムパネルラの幼名を知ったという可能性もゼロではありませんが、そうだったとすれば、(他書籍で使われる)カンパネラでなく(西洋哲学史でのみ使われる)カムパネルラと書いている理由が説明されなくなってしまうのです。すると、宮澤賢治はカムパネルラ=ジョバン(ニ)だったということを知らずに、何かの偶然で、この名前の組み合わせを使ったということなのでしょうか?

 けれど、それも「できすぎた話」のようにも思えます。同じ列車に乗り合わせた(まるで自分の片割れのような)存在と別れていくという「銀河鉄道の夜」の物語中で、それらふたつでひとつ存在に、カムパネルラとジョバン(ニ)という「ひとり」の名前が付けられているなんて、何だか偶然だとは思い難い話です。ジョバンがヨハンに由来するとてもポピュラーな名前だとは言え、「偶然の一致」とするには少しばかり無理があります。…というわけで、「銀河鉄道の夜」カムパネルラ=ジョバンニだったと宮澤賢治は果たして知っていたかどうか、それが「とても興味深い、物語作りにまつわるミステリー」なのです。

 ちなみに、カムパネルラという名は、イタリア語の「(教会の)小さな鐘を鳴らす」という仕事に由来するファミリー(姓)名です。こんな由来は、さすがに宮澤賢治が知ることはなかったことでしょうが、水面へと、空へと、亡くなった人を悼む灯籠がゆらり流されていく「銀河鉄道の夜」にすごく似合う名前だとは思いませんか。

 カムパネルラ、…どこまでも どこまでも 一緒に行こう

    「銀河鉄道の夜」

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*ジョバンニという名前は、宮澤賢治の「ひのきとひなげし」にも「セントジョバンニ」として登場しています。
**カンパネッラは強い信仰と自然に学ぶ科学を指向する矛盾を抱え、宮澤賢治自身を彷彿させます。ちなみに、カンパネッラは71年の人生中の32年を監禁・幽閉で過ごしました。その中のいくばくかは、第2次ガリレオ裁判でガリレオの弁護をしたため、という人です。

 日本では古くから「向かって右側」が「上手(かみて)=偉い側」とされてきました。なぜかというと、支配者は「南」を向いて国を統治するべきとされていた昔、それと同時に、南を向く統治者にとって「(太陽が昇る)東側=左側」が「尊い側」とされたからです(これは天子南面の思想と呼ばれます)。他の多くの国々と同様に、古来の日本でも太陽=日(ひ)に対する崇拝の意識が強かったのです。その結果、統治者を眺める私たちにとっては、向かって右側が「偉い側」になりました。

 そんな背景があり、ひな人形は古来から「男雛が向かって右、女雛は向かって左」でした。…ちなみに、「ひなまつり」では、「あかりをつけましょ ぼんぼりに…お内裏さまとおひなさま…」と歌われていますが、お内裏さまというのは、「内裏=天皇の住居」に居る人=天皇と皇后を指します。つまり、お内裏さま=天皇+皇后ですから、「ひなまつり」の歌詞は実は間違っています。

 そんな「男雛が向かって右、女雛は向かって左」というひな人形の配置が、昭和初期に東京(関東)のひな人形業界で「左右反転」しました。 なぜかというと、1928年(昭和3年)11月10日に昭和天皇が即位の礼(皇位を継承したことを世界に表す最高ランクの皇室儀典です)を行った際、天皇・皇后が(古来の日本とは反対に、向かって左側を偉い側とする)西洋の上手(かみて)・下手(しもて)に倣(なら)って、天皇が向かって左・皇后が向かって右に位置したからです。それに「乗っかった」東京の業界が、お内裏さま(天皇と皇后)の配置に沿ったひな人形を作り始めた…というわけです。

 もちろん、伝統をよく知る京都界隈では「おいおい、そんな流行には乗れないぜ」というわけで、いわゆる(現在多く売られている)「男雛が向かって左、女雛は向かって右」と左右逆転してしまった関東雛とは異なり、京雛と呼ばれる昔ながらの「男雛が向かって右、女雛は向かって左」配置が用いられています。

 昭和天皇の即位礼に至る前、天皇が皇后の向かって右に初めて立ったのは、明治時代の初め、明治7年(1874年)のことでした。 これ以降、明治後期には、掲げられる天皇の写真(御真影)の並びや即位礼に際しては「天皇は向かって左・皇后は右とすべし」と(西洋風な並びが)正式に公布されたのです(即位礼における並びの決まりが公布されたのは明治42年のことでした)。ですから、大正天皇の即位礼でも「天皇は向かって左・皇后は右」だったのです。…しかし、大正天皇の即位礼には、懐妊していた皇后は出席しなかったため、実際には「天皇は向かって左・皇后は右」という風に二人が並ぶことはありませんでした。だから、昭和天皇の即位礼が、初めて「天皇は向かって左・皇后は右」という並びに沿って天皇と皇后が並ぶ状況になった、というわけです。そんなわけで、昭和初期の昭和天皇の即位礼をきっかけにして、それ以降東京(関東)のひな人形業界を中心に(セールスのために生み出された流行として)男雛と女雛が左右逆になったのです。

 関東雛は、天皇の並びを反映して「男雛と女雛だけ」を左右反転したので、男雛・女雛配置とそれ以外の配置が矛盾してしまっています。たとえば、(右大臣より偉い)左大臣は向かって右のままですから、男雛・女雛は向かって左側が「偉い」側になっているのに、「大臣」は偉い側が右側になっています。そしてまた、「左近の桜右近の橘」も天皇の向きで左=向かって右に桜があり、向かって左側(=天皇の向きで右近)に橘が位置しています。男雛と女雛以外は昔ながらの並び=昔ながらの(向かって)右が上位の考えに沿っているので、並びの思想には一貫性が無くなってしまいました。

 これが、ひな人形の「男雛と女雛が逆になる」までの詳しい歴史(簡略版)です。