雑学界の権威・平林純の考える科学

 電磁気学・流体力学・熱力学…数多くの物理学の方程式に、「∇」という記号が登場します(右の方程式は電磁気学のマクスウェル方程式です)。 この記号は、19世紀英国の数学・物理学者であるハミルトンが使い始めたことから、ハミルトン演算子と呼ばれたり、あるいは「ナブラ記号」と呼ばれたりします。 (ナブラ)∇がたくさん書かれた黒板を見た瞬間、急に内容が難しく感じられ、へこたれた気分になってしまったことがある人も多いのではないでしょうか?…今日書く記事は、そんな「ナブラ記号」が好きになる雑学です。

 ∇(ナブラ記号)という記号は、1846年に、ハミルトンが初めて使い始めました。 しかし、それから長い間、∇という記号は、「我が輩は…名前はまだない」状態、つまり「名無し」さんのままでした。 だから、「ハミルトンの演算子(ハミルトンが使った記号)」と呼ばれたり、定着しない他の名前で呼ばれていたりしたのです。

 ∇が使われ初めて24年後の1870年に、(マクスウェル方程式を生み出した)電磁気学で有名な物理学者マクスウェルが「この∇記号、何か良い呼び名はないかい?」と友人たちに尋ねます(名前がないと不便ですからね)。 すると、24歳だった神学者W.R.スミスが、こう答えます。

 ギリシャ神話に登場するカドモス王子が∇を使うとき「∇の名」を周りの先生たちに尋ねたとしたら、”そりゃ、オマエそれはナブラ(ヘブライ語で竪琴を示すNebel)に決まってる”って言うと思います。

 ギリシャ神話中で、カドモス王子は(同じくギリシャ神話に登場する)ヘルメースから「竪琴」を贈られます。 ナブラ記号は、まさに「逆三角形の竪琴」の形をしています。 そこで、ハミルトンの演算子が使われ始めた年に生まれた24歳のスミスは、マクスウェルに「∇はナブラと呼びべきだよ(竪琴の形に似てるし)。古のギリシャ神話の神々だって、ヘルメースから竪琴を譲られたカドモス王子には、”それはナブラ(竪琴)だ”って答えるに決まってます」と、洒落っ気たっぷりにアドバイスしたというわけです。 そして、ハミルトンが使い出した∇記号は、24年の時を経て、ヘブライ語のNeblに由来するギリシャ語のナブラという名前で呼ばれるようになったのです。

 …さて、ギリシャ神話のヘルメース(フランス語読みでは”エルメス”ですね)がアポローンに譲った竪琴が、「アポローンの竪琴」です。 それは、夏の夜空に輝く「こと座」です。 こと座α星ベガは、切ない物語のヒロイン、「七夕の織り姫星」です。そして、 ベガ(織り姫)はわし座α星アルタイル(七夕の彦星)・はくちょう座α星デネブとともに、夜空に「夏の大三角」を描き出しています。

 黒板に描かれた∇(ナブラ)を見たら、その名前の由来となった、夏の夜空に浮かぶ「こと座」や、織り姫や彦星が描く「夏の大三角形」を思い浮かべると良いかもしれません。 小難しいように見えた形の向こうに、魅力的な歴史が浮かび上がり、そして黒板に描かれた数式が好きになるはずです。


参考:ヘブライ語のNebel(堅琴)を語源に持つナブラ▽について On Nabla ∇ originated from Nebel (=Harp) in Hebrew