「ケータイや電話機」と「電卓」は、どちらも数字が同じように並んでいる…ように見えて、実は「数字ボタンの並び方」は違っています。
たとえば、ケータイと電卓を机の上に並べてみれば、ケータイなら「小さな数字のボタンが遠くにある」のに、電卓では「小さい数字」は手元=近い方にあります。
つまり、ケータイや電話機と電卓では、ボタンの位置が実は「逆」になっているのです。
それだけでなく、電話機の「0」は「9」の近くにありますが、電卓の「0」は「1」の近くにあります。
ケータイつまり電話機と、電卓のボタンの配置が異なっている理由は、それらが使われる「向き」と「0(ゼロ)の役割」に由来しています。
かつて、(縦に)壁などに備え付けられていた電話機は、そのボタンを(上から眺め)指でボタンを押そうとすると、「上から数字が並んでいる」方が「わかりやすい」と考えられ、そして、その考えに沿って「電話機」のボタン配置順序が決まりました。
また、電話機の「0」は(実質上)「10」を表していました。
つまり、かつて、電話機の「数字」はパルスの数を表していて「1は2個、2は2個…0は10個」ということを意味します。
電話機の0は10なのですから、1の前ではなくて9の後になくてはならないのです。
だから、小さい数字が「上」になるというわかりやすそうなルールにもとづいた結果、「上」から1,2…9,0と数字が並ぶ、今のケータイのボタン配列ができたわけです。
その一方、(お店のレジなどにあるキャッシュレジスターのボタン配置に由来する)電卓のボタン配置は、それらのボタンが水平に設置されていて、商品の価格で使われることが多い「0や1」を(押しやすい)「手前」に配置した、ということに由来しています。
電卓の「ボタンの数字」は「商品の価格に登場する数字」を示していて、商品価格には「0や1」が使われることが多くて、水平に設置された(それらのボタン)を押しやすいようにと考えられて(電話機とは”逆の)ボタン配置が採用されたのです。
さて、何割かの方はこれで納得したかもしれませんが、まだ納得できない人もいるだろうと思います。
たとえば、「商品の価格で使われることが多い0(ゼロ)や1(イチ)」と書きましたが、「0や1」が「商品の価格に登場することが多い」なんて聞いたことがないぞ!と思われる方も多いのではないでしょうか?
そんな方のために、Amazonが販売している商品から 約1000種の商品を適当に抽出し、それらの商品価格に登場する(0から9までの)数字の割合をグラフにしたて、下に貼り付けてみました。
このグラフを眺めれば、「商品価格には0(ゼロ)がダントツに多く使われて、ほんの少し1(や2)が多いかな」ということがわかると思います。
こういった「商品の値段」を楽に・簡単に電卓に入力しようと思うなら、「あぁ、確かに0や1を”手前”に配置したくなるよなぁ」と納得できるハズです。
というわけで、今日は『ケータイと電卓の数字ボタン配置が異なる理由」を、「あぁ、なるほど」と納得・実感できそうなデータとともに、ご紹介してみました。
ゲーテと言う名前を聞くと、どんなことを連想するでしょうか?
読書が好きな人であれば、「若きウェルテルの悩み」「ファウスト」といった小説や戯曲を思い出すかもしれません。
今日は『ゲーテが「囲碁の碁石の大きさ」を予言していた?』という話を書いてみようと思います。
囲碁はマス目が描かれた碁盤の上に、白色と黒色の「碁石」を交互に並べ、「どれだけ広い範囲を碁石で囲むことができるか」を競うゲームです。
囲碁で使われる碁石、白石と黒石の大きさは、同じではありません。
白石直径21.9ミリ(7分2厘)、黒石直径22.2ミリ(7 分3厘)で黒石の方が0.3ミリ、また厚さについても白石に比べて黒石は約0.6ミリほど大きく作られています。
日本棋院 碁石解説ページ
直径が白石 21.9mm・黒石 22.2mm ということは、黒石の方が1.4パーセントほど、実は大きいのです。
…それでは、なぜ、囲碁で使われる碁石は、白石より黒石の方が大きいのでしょうか?
ゲーテは(今で言うところの)科学者でもありました。
20年もの年月をかけ、光学に関する歴史や自説を論じた「色彩論 “Zur Farbenlehre”」には、右のような図とともにこのような解説が書かれています。
(右の)白い背景の上に描かれた黒円は、(左の)黒い背景の上に描かれた白円よりも、1/5ほど小さく見える。
ということは、その分だけ黒円を大きくしてやれば、人には黒円と白円が同じ大きさに見える。
つまり、黒い円は白い円よりも大きくしてやらないと「同じ大きさには見えない」とゲーテは書いているわけです。
そう、ゲーテが書いた「黒い円は白い円より大きくしないと、同サイズに見えない」理屈と全く同じ理由にしたがって、囲碁の黒石は白石より大きく作られているのです。
これは同サイズの白石と黒石を並べた場合、白石(膨張色)が大きく見えてしまうため視覚的なバランスと効果を配慮して黒石を若干大きめに作っています。
日本棋院 碁石解説ページ
ゲーテの「最後の言葉」は、あなたもきっと知ってるのではないでしょうか?
もっと光を! “Mehr Licht!”
ゲーテ、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは光を研究し続けた人でもあったのです。
「霧」と聞くと、どんな場所を連想するでしょう。
おそらく、それは、(たとえば)標高が高く・気温が低い高原などで「あなたが暮らす街ではない」のではないでしょうか?
しかし、何十年も前、横浜や東京という街は、一年のうちのかなりの日数「霧」に覆われていました。
夜になると白い霧が、時に不気味に、あるいは、時にロマチックに街を覆い出す…横浜や東京という街は、そんな場所でした。
だから、昔の懐メロ(懐かしのメロディ)には「夜霧よ今夜も有難う」「東京夜霧」「夜霧の第二国道」といった、タイトルの歌が、多く残っています。
けれど、そんな「霧に覆われた街」を、最近は想像することが難しくなってしまいました。
下のグラフは、1930年から2010年までの「東京・横浜における霧日数変化」です。
かつては、一年間のうち、3ヶ月(90日)近くの日、つまり数日に一度は「街が霧に覆われていた」のです。
確かに、昔は「霧が多かった」ということがわかります。
東京と横浜における霧日数の経年変化(近藤純正ホームページ”からの引用)
そしてもうひとつ、このグラフを眺めるとわかることがあります。
それは、最近は「霧」が大幅に減り、ほぼなくなってしまった、ということです。
かつて「霧」に覆われていた東京や横浜の街は、もう「霧」とは無縁の街になってしまったのです。
東京や横浜から「霧」が消えた理由は、「大気汚染の減少」と「気温の上昇(相対湿度の低下)」だと言われています。
「寒い」と霧が発生しやすいものです。
そして、「大気が汚染され、空気が汚れ、もやがかっている」と、それはすなわち”霧”と判断されてしまいます(霧とは目視視認距離が1km以下のことを指すのです)。
だから、都会の気温がまだ低く(ヒートアイランド現象が起きず)、そして、日本が発展する途上で大気汚染が激しかった時代には、「霧」が発生しやすかった、というわけです。
東京や横浜を「霧」が覆うことが、今や珍しくなってしまいました。
その理由は、日本の都会が発展する過程でコンクリートに覆われて・気温が上がっていったこと、そして、日本が発展し終わり・大気汚染が消えていったこと、なのです。
東京や横浜の街を霧が頻繁に覆っていた昔の時代…東京や横浜から霧が消えてしまった今の時代…あなたは、どちらの街を生きたいと思いますか。どちらの時代が好きですか?