「人が恐れるキャラクター」に緑色が多いのはなぜでしょうか? たとえば、映画「シュレック」の主人公シュレックは、緑色の肌を持ち(外見から)人から怖がられている存在です。また、超人ハルクの主人公ハルクも(人から恐れられる存在である変身時は)緑色の肌のキャラクターです。あるいは、オズの魔法使い(ウィケッド)の主人公、西の”悪い”魔女も緑色の肌をしています。
これらのキャラクターたち、超人的な力を持ち・人から恐れられ・しかし時に外面とは違うものを内面に備えるキャラクターたちは、なぜみな緑色の肌をしているのでしょうか?
たとえばシュレックの主人公シュレックとフィオナ姫といったキャラクターが備える「緑色」は、中世ヨーロッパの時代から受け継がれたイメージ、「緑色は悪魔の恐ろしさ・醜さを感じさせる色であると同時に、若々しい青春の色・恋を連想させる色だ」と、「色で読む中世ヨーロッパ(徳井 淑子 講談社選書メチエ)」には書かれています。中世ヨーロッパの人々が持っていた「色のイメージ」を、膨大な文献を引きつつ書くこの本が、「緑色(かつては緑色・黒・青色といった間の区別は不明瞭だったと言います)」に関して説明するのは、次のようなことです。
「緑色」は「自然の樹木・森」といった存在そのものであって、その森とともに暮らす中で、森の緑は人の営みを支える存在であると同時に恐怖・神秘を感じさせる存在でもあった。そして、冬が終わり夏が始まる5月(結婚シーズン6月の前月ですね)に広がる「緑色」は若さ・活気・楽しみ・恋・愛情といった活力ものであると同時に、見る見る間に移り変わっていく緑色は「変わりやすさ・二面性・混乱・破壊」といったものを意味するようになり、強い愛を示すと同時に・その愛の移り変わりやすさ・心変わりすら示し、あるいは、(賭けごとを司る台が緑色のテーブルクロスで覆われるように)幸運と不幸が折り重なる栄枯盛衰をも示すようにもなった。そして、こうしたことが積み重なっていった後に、中世ヨーロッパでは、「悪魔」「醜さ」といったものも緑色で描かれるようになりました。そして…この歴史の延長線上に、シュレックや超人ハルクたちは今立っている、というわけです*。
中世に長く続いたキリスト教と(緑色をシンボルカラーとする)イスラム教の戦いも、そのような背景に影響を与えているかもしれないと書く一節は、ミュージカル「ウィケッド(Wicked)」を連想させます。
ストーリーは、アメリカでは誰もが知っている少女ドロシーの冒険物語「オズの魔法使い」の裏話として構成され、(緑色の肌を持つ)西の悪い魔女・エルファバと南の良い魔女・グリンダの知られざる友情を描いている。境遇の全く異なる魔女2人の友情やボーイフレンドとの三角関係に焦点を当てながらも、肌の色の違いや動物たちに象徴させたアメリカ社会が抱える弱者への差別問題がある。湾岸戦争がきっかけで制作されたミュージカルであるという話もあり、「アメリカにはアメリカの正義があり、イラクにはイラクの正義がある」といった「表の正義と裏の正義」、「正義とは一体なにか?」といったところにメッセージを込めたいといった製作者の思いがあった
Wicked
今回は、「超人的な力を持ち・人から恐れられている…そんなキャラクターたち」の肌が緑色に塗られるまでの背景を眺めてみました。
*ちなみに、超人ハルクは当初灰色に塗られていたのですが、印刷工程上の理由(安定再現性)で色が変更され、緑色が選ばれました。(参考:
アメコミ・ヒーローの「色使いのヒミツ」を調査せよ!)
「ガリヴァー旅行記」は、1726年にジョナサン・スウィフトが書いた有名な風刺小説です。
ストーリーは、みなさんご存じのように、船医ガリバーが身長が小さな人たちの国(リリパット国・ブレフスキュ国)に行ったり、巨人の国に行ったり、空飛ぶ島「ラピュタ島」や馬の国や…そして日本に!行ったりする、という話です。
このガリヴァー旅行記に由来する、ある有名なコンピュータ用語があるのをご存じでしょうか?
それは、「ビッグエンディアン」「リトルエンディアン」という「コンピュータ内部での(多バイト)データの並べ順」を表す用語です。「データの上位バイトからメモリに並べるやり方」はビッグエンディアンと呼ばれ、その逆に「下位バイトから並べていくやり方」はリトルエンディアンと呼ばれます。たとえば、インテルx86シリーズのCPUはリトルエンディアンですし、その一方でJava仮想マシンや(AppleのMacがかつて使っていた)モトローラ系CPUはビッグエンディアンで動いています。
ガリバー旅行記の第1エピソードの舞台、身長が小さなリリパット国とブレフスキュ国は戦争を続けています。
そして、その戦いの理由は、リリパット国は「(半茹で)ゆで卵を食べる時は大きい(太った)方の端っこ(=”Big-End”)から割る」やり方を守ろうとしているのに対し、ブレフスキュ国は「小さい(細った)方の端っこ(=”Little-End”)から割る」やり方をしようとしているからなのです。そして、それら2派を、スウィフトは「大きい方の端(=”Big-End”)から割る」”Big-Endian”(大きい端っこ派)と「小さい方の端(=”Little-End”)から割る」”Little-Endian”(小さい方の端っこ派)と書いたのです。
このガリバー旅行記で登場した「生茹で卵を割る順番」に対する造語「ビッグ・エンディアン(大きい端っこ派)とリトル・エンディアン(小さい方の端っこ派)」が、いつしか、コンピュータの「(多バイト)データの並べ順」を表す言葉として使われるようになりました。コンピュータ内部のメモリ配置の順番を示す用語は、ガリバー旅行記中に由来していたのです。
ところで、スウィフトが書いた風刺小説「ガリバー旅行記」に登場する「ビッグ・エンディアンとリトル・エンディアン」は、キリスト教のカトリック(旧教)とプロテスタント(新教)を指しています(参考)。つまり、(スウィフトから見れば)「ゆで卵の割り方のような”ささいな違い”」から争いが続いている状況を、スウィフトはガリバー旅行記として風刺していたのです。
コンピュータの「ビッグ・エンディアンとリトル・エンディアン」も、その違いから、しばしば「間違い」「混乱」「争い」を起こしたりします。…そんな(コンピュータが上手く動かない、という)悩みを抱えた時は、「ガリバー旅行記」のリリパット国とブレフスキュ国を思い出すと、ちょっと気分転換になるかもしれませんね。
参考:
ゆで卵、これが「ベストな剥き方」だ!?
「ノルウェイの森」「桜の園」という題を聴くと、あなたは何を思い浮かべるでしょうか? 「ノルウェイの森」という題からは、村上春樹が書いた小説の題名を思い浮かべる人も多いかもしれません。 このタイトルは、英国のロックバンド”The Beatles”の曲「ノルウェーの森」に由来します。 そして、「桜の園」と聴くと吉田秋生が描くマンガ(や映画)を連想する人が多そうですが、この題名も、チェーホフが書いた演劇「桜の園」に由来します。 つまり、どちらの題名も外国語を翻訳した「日本語」です。
このふたつの題名は、両者とも「このタイトルは”誤訳”でないか」と言われたことがある・言われているものです。 「ノルウェーの森」の原題”Norwegian Wood”を考えると、一般的に”Wood”は「森」ではありません。 それは単なる「材木」に過ぎません。 だから、”Norwegian Wood”を素直に訳すならば、それは「ノルウェー材木/ノルウェイ製の家具」ということになります。 そしてまた、「桜の園」(原題は”Вишнёвый сад” ヴィーシニョーヴィ=桜 サート=果樹園)は、ロシアでは「桜は果実を収穫するための畑」であって(日本にある桜とは違い)「花を愛でる庭園」ではないという理由から、チェーホフの演劇の題名「ヴィーシニョーヴィ・サート(桜の園)」は「桜んぼ畑」とでも訳した方が良いのではないか、と言われていたこともあります。 どちらの題名も、確かに「誤訳」にも思えます。
その一方、これらの題名について「決して誤訳というわけではない」という声も多くあります。 たとえば、村上春樹は、”Isn’t it good, Norwegian Wood?”という言葉は、”Isn’t it good, knowing she would?”の語呂合わせだという説も紹介しつつ、「”Norwegian Wood”を、”ノルウェイの材木”といった風に訳すのは短絡的である」といったことを書いています(参考:「ノルウェイの森」誤訳問題について)。
そしてまた、宇野重吉(俳優である寺尾聰のお父さん)は「チェーホフの『桜の園』について」の冒頭に、スタニスラフスキーの著書に書かれたことを引用しつつ、およそこんな話を書いています。
チェーホフは、(没落貴族が「桜んぼ畑」を失う過程が描かれる)「ヴィーシニョーヴィ・サート(桜の園)」のタイトルを決めたとき、ヴィーシニョーヴィ・サートというロシア語発音の(アクセント箇所)変遷を意識しつつ、この演劇の題名は「収益をもたらす桜んぼ畑」でなく「(消え去る運命の)桜んぼが咲く場所」だと言った。ロシア語の「ヴィーシニョーヴィ」は、「桜の園」が舞台にする時代に前後して、アクセントが変わり、意味合いも変化していたのである。そして、チェーホフは「収益をもたらす桜んぼ畑」が「(消え去る)桜咲く場所」へと変わっていく「そんな時」を描いたのである。
そして、「(消え去る運命の)桜が咲く場所」を日本語にしようとするならば、それは「桜んぼ畑」ではなく「桜の園」の方が相応(ふさわ)しく、「桜の園」は誤訳どころかまさに絶品の名訳である、と書くのです。
違う気候や地理があり、(過去から現在に至る)異なる歴史背景があり、それらを反映した違う文化や言葉を持つ中で、誤訳か名訳か?という問題は一筋縄(ひとすじなわ)では行かない難しい話のようです。しかし、それと同時に、その「誤訳or名訳?」という謎を調べていくということは、違う場所・違う歴史の上に立つ、そして違う言葉を操る人たち・物語を理解する「巨大なパズル」なのかもしれません。
さまざまな「タイトル」を眺めるとき、これは(指し示したいこと)と違った誤訳なんだろうか、それとも(指し示す何か)をうまく描き出す名訳なんだろうか…そんなことを考えてみるのはいかがでしょうか。そんなことを考えると、その「タイトル」の向こうに、さらに奥深い何かが見えてくるかもしれません。