「方程式で未知数を”x”として表すことが一般的になったのはアラビア語に由来する」という話があります。xやyあるいはzといった文字で未知数を表し、a,b,c…といった文字で既知の値を表すのは、17世紀に活躍したフランスの学者 デカルト が使い、その結果広まったとされる流儀です。この流儀の背景には、8世紀から15世紀にかけて盛んだったイスラム数学が反映されているという「へぇ〜。なるほど〜」と感じさせられる説明です。
「未知数”x”の語源はアラビア語」というのは、次のような説です。たとえば、西暦820年に書かれた“hisāb al-jabr wa’l muqābala”「約分と消約の計算の書」に「方程式の未知数を (“thing” “something” “object”といった意味にあたる)”shay’”"shey’”という言葉で表す」と記されているように、イスラム数学では未知数を”shay’”"shey’”と(当時は”数式”という概念が生み出されていなかったため)文章中で表現していました*。その”shay’”"shey’”が、ヨーロッパに伝わる過程のスペイン語圏で sh が(sh音がスペイン語では存在しなかったため)xと変換され、ヨーロッパ圏でも未知数にxを使うようになったというものです。この話は、さまざまな興味深いトークを開催しているTEDでもTerry Moore: Why is ‘x’ the unknown?として行われ、現在では非常に広まっています。
…しかし、この話は本当なのでしょうか?A History of Mathematical Notations (Dover Books on Mathematics)によれば、デカルトが「xやyあるいはzといった文字で未知数を表し、a,b,c…といった文字で既知の値を表す」という書き方をした、デカルトが四十代に入った1637年に公刊された著書「方法序説」中に掲載された「幾何学」の頃からです。その前1629年の頃から、xやyといった文字を未知数として用いることもありましたが、けれどまた、xやyを既知数として使うこともあり、必ずしも”x=未知数”という定義に沿ってはいなかったのです。もしも、デカルトが「アラビア語記述の影響」を受けていたとしたら、40代近くになってから、遙か昔に使われていた語句を踏まえた使い方を急に行い始めるというのは、何だか違和感を感じざるを得ません。
もちろん、デカルト以前も同じです。16世紀フランスの学者であるフランソワ・ビエトが生み出した数式記述法「未知数 をA, E, Iといった母音で表し・既知の数をB,D,Fといった子音で表す」といったものや、未知数の1乗をN・2乗をQ・3乗をCと、1未知数を 文字を分けて表すといった記述もありましたが、そこに至るまでの数式記述法の過程においては、アラビア語”shay’”の影響は見受けられません。**
9世紀のイスラム数学記述法が、デカルトに至るまで影響を与えていたとしたら、数式記述の歴史に何か「証拠」が残っていそうなものです。しかし、残念ながら、そのような片鱗は見つかっていないのです。
ということは、「未知数”x”の語源はアラビア語という面白・なるほど〜な納得話」は、実はデマである可能性が濃厚のようです。確かな根拠がない「○×の語源は実は△□だった説」という偽史実は巷に溢れているものです。どうやら、「未知数”x”の語源はアラビア語」もそのひとつだったらしい、というわけです。
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* 未知数が複数あるときには、その他に”measure”, “part” といった意味の語句が使われました。
** デカルトは、1640年になってから、「未知数の1乗をN・2乗をQ・3乗をCと、1未知数を 文字を分けて表すといった記述」も使っています。
韓国内で消息不明となった内閣府職員が、北九州市の海岸近くでゴムボート内で遺体として発見された、というニュースが世間を賑わせています。釜山市で購入したゴムボートで日本への渡航をしようとしたのではないかとか、亡くなった状態でゴムボートに乗って冬の日本海を北九州市まで辿り着くはずがない、といった推測や疑問が渦巻く不思議な話です。今回は「もしも、ゴムボートに乗って釜山近郊から対馬海峡へと向かったら、ゴムボートはどこに辿り着くか」を考えてみることにします。
対馬海峡に流れる海流は、基本的には東シナ海から日本海へと流れています。たとえば、左下の図は海洋大循環モデル(RIAMOM)による2014年1月10日の(海流の)平均速度です。対馬海峡のあたりでは、(対馬が流路を狭めることで、海峡が狭まった部分では海流の速度を速くなり)およそ秒速 50cm(時速1.8km)ほどで南西から北東に向かって流れていることがわかります(対馬海峡表層海況監視海洋レーダーシステムのデータも参考になります)。だから、ゴムボートが釜山近郊から対馬海峡の波間に漂い始めたならば、辿り着くのは、島根県あたりの海岸に思えます。
しかし、ゴムボートを動かす力は海流だけではありません。海面に浮かぶゴムボートは、海上に吹く風からの力も多く受けます。ゴムボートは構造的に海面上に(水面下よりもずっと)大きな体積を占めますから、実際のところ、ゴムボートが水面を漂う時には、流れる風の影響が非常に大きくなりそうです。
そこで、たとえば、2014年1月10日の海洋大循環モデル(RIAMOM)による平均風速・向きを眺めてみると、右下図のようになり、北西から南南東に向かって、平均的には10 m/s (時速36km)近い強い風が吹いています。風が強かった1月10日ほどでなくても、この時期は平均的に5~10 m/s (時速18~36km)ほどの風が対馬海峡上に吹いています。
そこで、こうした時々刻々の海流や風の向きや強さ、そしてゴムボートの形や大きさをもとにした大雑把な(風がゴムボートに与える影響の)見積もりをもとにして、ゴムボートが1月10日に釜山近郊を出発したら、そしてゴムボートに積まれたモーターが海に出てすぐに動かなくなったとしたら、一体どこに辿り着くかをシミュレーション計算してみました。その結果が下の図です。
この地図上に描かれた矢印一本分は「24時間分のゴムボートの動き」です。釜山を出たゴムボートは潮の流れや風に押されて、およそ7日ほどで、まさに北九州市近くに辿り着いています。喫水がとても浅くて・底面も平らなため、海流の流れの影響を受けづらく、けれど海面上に大きな体積を占めることで風に押されてしまうゴムボートの場合には、この時期に釜山から対馬海峡に出ると北九州市に辿り着く、というのが「意外だけれども実は自然なこと」だったりするのかもしれません。
今回は、時々刻々の海洋環境の中で「ゴムボートが釜山近郊から出航したら、ゴムボートがどのように動いていくか」をシミュレーション計算してみました。それと同じように、時々刻々の海洋環境の中で「北九州市に辿り着いたゴムボートは(時間を遡っていけば)一体どういう方向から・何時どんな場所から出航したかを逆に辿ることもできます(精度はさておき)。
…今頃、どこかの研究所にシミュレーション計算の依頼がされていて、詳細なデータをもとにスパコンがガシガシ回されて、
この奇妙不可思議な話の謎が解き明かされているのかも!?
一万円札には、古くは聖徳太子、1984年からは福沢諭吉の肖像画が描かれています。
現在発行されている一万円札(平成十六年十一月一日から発行を開始する日本銀行券壱万円、 五千円及び千円の様式を定める件で定められています)には、和服姿に(叩くと文明開化の音がしそうな)洋風髪型の福沢諭吉が描かれています。この一万円札の福沢諭吉を、赤外線で眺めると、まるで「チョンマゲ頭の福沢諭吉」が見えてくることをご存じでしょうか?
赤外線で一万円札の福沢諭吉部分を撮影してみたのが、右の写真です。…赤外線で眺めると、ふつうの(私たちが目にすることができる)可視光で眺めた福沢諭吉とは大きく異なる姿が浮かび上がってきます。散切り姿の頭頂部頭髪が消えて、まるでチョンマゲ姿のような福沢諭吉の姿が見えるのです(参考:江戸幕府時代のチョンマゲ姿の福沢諭吉)。
これはもちろん、紙幣偽造防止のために、福沢諭吉部分には(まるで全く同じような色に見えても)実は部分毎に赤外線の吸収(透過)度合いが異なるインクが使われているからです。だから、赤外線の目で一万円札を眺めると、諭吉の(向かって)右の部分も「真っ白」に見えますし、頭頂部は(本来は洋風の散切り頭のはずなのに)チョンマゲ姿に見えてしまう、というわけです。一件ホンモノそっくりな偽一万円札を作ったとしても、赤外線で眺めれば「(極端に言うと)チョンマゲ姿じゃないから、どうみても偽札だ!」とわかってしまうわけです。
可視光で眺める世界と、赤外線で眺める世界は、意外なほど大きく違います。私たちが手にする一万円札に描かれている福沢諭吉先生も、赤外線で眺めると、文明開化の明治時代から、江戸時代のチョンマゲ姿に装いを変えるのです!