雑学界の権威・平林純の考える科学

 トイレットペーパーには、表面と裏面があります。裏面はゴワゴワな肌触りが堅い表面で、それとは逆に表面(おもてめん)はフンワリ肌に優しい柔面になっています。表面と裏面を見た目で区別することができなくても、その表面性の違いは、たとえば指で撫でてみたりしたならば、指の先に感じる抵抗を手掛かりにして、いともたやすく区別することができます。…このトイレットペーパーの裏表の違いは、とても不幸なことに、多くの場合「裏面」がお尻表面を撫でてしまうという構造になっています。なぜかというと、多くのトイレットペーパーは、「回転面の内側に粗裏面が向くように作られている」からです。

 

 壁に設置されたトイレットペーパーを手を伸ばして自然に丸めようとすると、やってみればわかりますが、手前側に向かって丸めることになります。たとえば、下の図は、回転面の内側に「粗い裏面」が向くように設置されたトイレットペーパーが「壁に離れた側から紙が足らされている状況」で、丸める際の異なる2種の方法を描いたものですが、おそらくあなたが自然に感じる方法は前者(巻き方Aの)、外側に裏面が向く方法だと思います。そして、こんな状況下では、トイレットペーパーに手を伸ばすと、自然に「トイレットペーパーの裏面が外側に向かうように」丸められることになります。つまり、表面抵抗が大きな粗い・痛い面がお尻に面するようになってしまう側です。

 上図のような、トイレットペーパーが「壁に離れた側から紙が足らされている状況」というのは、実は日本でよくある風景です。「日本では実はよくある」ということを逆に言うならば、それは、他の国では特に自然とは限らない点ということです。他国のトイレットペーパーでは、たとえば下図のように「壁に近い側に紙が足らされている状況」であることも多く、そんな場合には、トイレットペーパーに手を伸ばし自然に紙を丸めても(それと逆向きは、実際のところ、かなり不自然な向きになります)、柔らかな「表(おもて)面」が外側を向くのです。

 というわけで、トイレットペーパーで「(いつも)お尻をゴワゴワな堅面で拭いてしまう理由」とは、それは日本では「壁に離れた側から紙が足らされている状況」が多く、そして「回転面の内側に粗裏面が向くように製造されているからです。…それがなぜかということは、(今夜ももう遅いので)次回以降の話題にでもしようかと思います。

 気になったこと・思いついたこと・発見したことを書き留め始めて、15年近く経ちます。そんな中で一番の発見は「サンタが街にやってくる(2011年2001年)」に書いた、「サンタは確かに存在している(サンタが街にやってくる)」ということでした。

 もともとは「サンタクロースはいない・いるはずがない」という内容を書くつもりだったのに、最終的に計算ノートの上に浮かび上がっていたものは「サンタクロースは確かに存在している」という内容でした。10年前に、無味乾燥とした数式をノートに書いているうちに気づかされたことは、「目の前にスヤスヤ眠るこどもに贈り物を届けたい」と心から願う”存在”を蒸留したもの…それこそがサンタクロースという名前で呼ばれる存在で、そんな存在が確かに(小さかった)自分たちの前にも存在していて、それから年月を経た自分たちの中や先(未来も)にいるに違いない、ということでした。

 今年2013年も、もう12月になりました。…だから、自分が一番好きで・一番意外に感じた「発見」を、今年のこの季節も貼り付けておこうと思います。それは、年末近いクリスマスの頃には、「サンタが街にやってくる」という話です。

 フェルメールは、普通の風景を柔らかく写実的に描いた17世紀オランダの画家です。そのフェルメールが描いた「ミルクを注ぐ女」の世界を3次元空間として復元したのが、View Paint(Point)です(詳しい動画解説)。「ミルクを注ぐ女」が一点透視図法で精密に描かれていることを利用して、幾何学的な関係式やさまざまな歴史資料を元にして、絵画「ミルクを注ぐ女」が描かれた部屋や登場する人や物を、すべて3次元空間上で作り直した…というわけです。その製作秘話(凸版印刷 奥窪氏)を聞き、一番面白かったのが、「ミルクを注ぐ女」を3D化した際に気づかされたという、「絵画に描かれている、現実の世界ではありえないこと」でした。そのひとつが、「ミルクを注ぐ女」が持つ水差しは「ミルクが流れ出ることは不可能な角度だ」ということです。

 確かに「ミルクを注ぐ女」を眺めてみると、「ミルクを注ぐ女」が手に持つ水差しからはミルクが流れ出ることは不可能であることに気づかされます。水差しから滴るミルクは、太さがほぼ一定でおおよそ真っ直ぐ鉛直になっていますから、ほとんど動かない(定常)状態の水差しからミルクが落ちているように見えます。その一方で、画を描く視点は、水差しの口より高い位置にあるにも関わらず、水差しの中(入口の奥)には(地球の重力に従って、水差しの口と同じ高さで・ほぼ水平面になっていなければならないはずの)ミルクが全く描かれていないのです。…つまりは、「ミルクを注ぐ女」が手にする水差しの中には、「流れ出す」ことができるミルクは存在していない、というわけです。一体、これはどういうことなのでしょう? フェルメールは、なぜありえない風景を描いたのでしょうか。

 …画を描く時の風景を考えてみると、フェルメール「ミルクを注ぐ女」に描かれていたのは、実は「空の水差しを押さえつける女」だったのではないでしょうか。つまり、モデルの女性に「ミルクが入った水差し」を長時間にわたって手に持ち続けてもらうのは大変ですし、その水差しから延々とミルクを注ぎ続けるのも(水差しの中のミルク量は有限ですから)不可能です。…となると、画を描いた時には、モデルには空の水差しを持たせていたのではないだろうか?と思えてきます。さらには、「水差し」だって決して軽いものではないでしょうから、実は「水差し」の腹部分は陶製容器上に乗せられていて、そんな陶製容器の上に乗っかった「水差し」をモデル女性はただ押さえつけているのではないだろうか?という気がしてきます。そう考えながら「水差し」周りを眺めてみると、水差しは陶器容器に接触している位置関係に見え、水差しを手にする女性の右手は(水差しが陶器容器と接触する点のピッタリ反対側から)陶器容器側に押さえつけてるようにも見えてきます。

 さらには、「ミルクを注ぐ女」は空の水差しを陶器容器に乗っけていただけではなく、陶器容器の背後には水差しを乗せるための、つまり女性の左手が水差しの底を持ち上げるための苦労をしなくてすむようにするための、「台」なんかもあったりしたのじゃないだろうか?といった想像すらしたくなります。画を描くフェルメールの前にいたのは、何も入っていない水差しを・陶器容器や(陶器容器の背後に隠された)支持台の上で軽く押さえている女性で、流れ出るミルクは一番最後に「(全く別の瞬間を)重ね書き」されたものだったりするのかもしれない…という想像をしたくなります。

 ちなみに、「ミルクを注ぐ女」を3D化した際に気づかされた他のことは、女性の左腕が「ありえないほど太く描かれていた」ということだったそうです。この絵の中心で力強さや存在感を与えている「女性の腕」が、現実とは異なるけれど、フェルメールが描いたものだったのです。