右に貼り付けた画像は、テクニカル・プレゼンテーションの講習会で使ったスライドです。
プレゼンテーションをする時に、聴き手が「見たことがないもの」は、(全く知らないことを言葉で説明するのは難しいので)まずは何より見せましょう!という内容のスライドです。…けれど、今日の本題は、そんなことではありません。このスライドは、何年も前から使ってきたスライドなのですが、実はこのスライドには、少なくともひとつは明らかな「偽造」が行われています。つまり、「オボった箇所」があるのです。さて、一体どこに「偽造」が行われているかわかるでしょうか?
その答えは、「ダ・ヴィンチ 自画像」で画像検索してみると、一瞬でわかります。ほとんどのダ・ヴィンチ自画像は「右向き」です。しかし、右上スライドに貼り付けられたダ・ヴィンチは「左向き」です。そう、私がオボった箇所は、ダ・ヴィンチの顔画像です。右向きの顔を左向きに左右反転して使っているのです(下左スライド)。なぜかというと、(たとえば下右スライドのように)オボらずにダ・ヴィンチが右を向いたままでは、スライドのデザインが不自然になってしまうからです。自然な視線の動きに沿ってスライドを眺めた時、ダ・ヴィンチの後頭部に視線がぶつかってしまい、ダ・ヴィンチがそっぽを向いていて散漫な印象を与えるスライドになってしまうのです。…だから、「マ・マズイ…な」と思いつつ、オボった画像加工をしてしまったわけです。決して誉められないことですが、それくらい「自然に感じさせるデザインを行うことは(プレゼンでも)大切だ」というわけです。
ちなみに、「ダ・ヴィンチ 自画像」で画像検索をかけると、時折「左向きのダ・ヴィンチ」がいます。それは、私がスライド中で(自然に感じさせる)デザイン・レイアウトの基本に沿って画像加工を行ってしまったように、デザイン上の都合から画像をオボっているデザイナーがいるからです。…し・しかし、たとえばこのサイトのように、アートやダ・ヴィンチを主人公にしたサイトでダ・ヴィンチ自身の画像を左右反転でオボっていたりすると、「うーん、これはかなり度胸があるぞ!」「さすがに、そこまではなかなかできないよなぁ…」と考えさせらたりもします。…つまり、そ・それくらいに、「自然に感じさせるデザインを行うことは(プレゼンでも)大切だ」というわけです。
「方程式で未知数を”x”として表すことが一般的になったのはアラビア語に由来する」という話があります。xやyあるいはzといった文字で未知数を表し、a,b,c…といった文字で既知の値を表すのは、17世紀に活躍したフランスの学者 デカルト が使い、その結果広まったとされる流儀です。この流儀の背景には、8世紀から15世紀にかけて盛んだったイスラム数学が反映されているという「へぇ〜。なるほど〜」と感じさせられる説明です。
「未知数”x”の語源はアラビア語」というのは、次のような説です。たとえば、西暦820年に書かれた“hisāb al-jabr wa’l muqābala”「約分と消約の計算の書」に「方程式の未知数を (“thing” “something” “object”といった意味にあたる)”shay’”"shey’”という言葉で表す」と記されているように、イスラム数学では未知数を”shay’”"shey’”と(当時は”数式”という概念が生み出されていなかったため)文章中で表現していました*。その”shay’”"shey’”が、ヨーロッパに伝わる過程のスペイン語圏で sh が(sh音がスペイン語では存在しなかったため)xと変換され、ヨーロッパ圏でも未知数にxを使うようになったというものです。この話は、さまざまな興味深いトークを開催しているTEDでもTerry Moore: Why is ‘x’ the unknown?として行われ、現在では非常に広まっています。
…しかし、この話は本当なのでしょうか?A History of Mathematical Notations (Dover Books on Mathematics)によれば、デカルトが「xやyあるいはzといった文字で未知数を表し、a,b,c…といった文字で既知の値を表す」という書き方をした、デカルトが四十代に入った1637年に公刊された著書「方法序説」中に掲載された「幾何学」の頃からです。その前1629年の頃から、xやyといった文字を未知数として用いることもありましたが、けれどまた、xやyを既知数として使うこともあり、必ずしも”x=未知数”という定義に沿ってはいなかったのです。もしも、デカルトが「アラビア語記述の影響」を受けていたとしたら、40代近くになってから、遙か昔に使われていた語句を踏まえた使い方を急に行い始めるというのは、何だか違和感を感じざるを得ません。
もちろん、デカルト以前も同じです。16世紀フランスの学者であるフランソワ・ビエトが生み出した数式記述法「未知数 をA, E, Iといった母音で表し・既知の数をB,D,Fといった子音で表す」といったものや、未知数の1乗をN・2乗をQ・3乗をCと、1未知数を 文字を分けて表すといった記述もありましたが、そこに至るまでの数式記述法の過程においては、アラビア語”shay’”の影響は見受けられません。**
9世紀のイスラム数学記述法が、デカルトに至るまで影響を与えていたとしたら、数式記述の歴史に何か「証拠」が残っていそうなものです。しかし、残念ながら、そのような片鱗は見つかっていないのです。
ということは、「未知数”x”の語源はアラビア語という面白・なるほど〜な納得話」は、実はデマである可能性が濃厚のようです。確かな根拠がない「○×の語源は実は△□だった説」という偽史実は巷に溢れているものです。どうやら、「未知数”x”の語源はアラビア語」もそのひとつだったらしい、というわけです。
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* 未知数が複数あるときには、その他に”measure”, “part” といった意味の語句が使われました。
** デカルトは、1640年になってから、「未知数の1乗をN・2乗をQ・3乗をCと、1未知数を 文字を分けて表すといった記述」も使っています。
「運動エネルギー」というキーワードで、日本の憲法や法律・法令といった文章に検索をかけてみると、どうなるでしょう?
憲法や法律文章を調べても、理科の実験で習うような「運動エネルギー」なんて言葉は登場しないものでしょうか?
それとも、意外な場所で出現していたりするものでしょうか?
実は、とても重要な法律の中に「運動エネルギー」という言葉が登場しています。
それは「銃砲刀剣類所持等取締法」「銃砲刀剣類所持等取締法施行規則」で、けん銃や小銃といった「銃砲」がどういうものかを定義する箇所です。銃砲刀剣類所持等取締法 第一章 第二条 と 銃砲刀剣類所持等取締法施行規則 第三条によれば、「銃砲」というのは、運動エネルギーが「20 × 弾丸の断面の面積(cm^2)」ジュールを超えるものを指すのです。
銃砲刀剣類所持等取締法(昭和三十三年三月十日法律第六号)
第一章 第二条
この法律において「銃砲」とは、けん銃、小銃、機関銃、砲、猟銃その他金属性弾丸を発射する機能を有する装薬銃砲及び空気銃(圧縮した気体を使用して弾丸を発射する機能を有する銃のうち、内閣府令で定めるところにより測定した弾丸の運動エネルギー(単位はジュールとする)の値が、人の生命に危険を及ぼし得るものとして内閣府令で定める値以上となるものをいう。以下同じ。)をいう。
銃砲刀剣類所持等取締法施行規則(昭和三十三年三月二十二日総理府令第十六号)
第三条(人の生命に危険を及ぼし得る弾丸の運動エネルギーの値)
弾丸の運動エネルギーにつき法第二条第一項の内閣府令で定める値は、弾丸を発射する方向に垂直な当該弾丸の断面の面積(単位は、平方センチメートルとする。第百条において同じ。)のうち最大のものに二十を乗じた値とする。
ということは、たとえば、密度11グラム/cm^3の鉛製の(計算しやすく)1cm角の弾丸を発射する器具があったなら、この弾丸を発射したとき20ジュール以上の運動エネルギーを与えてしまうと、それはイコール「鉄砲」であるということになります。その「鉄砲か否か」となる境界値を計算してみると、秒速60メートルとなります。つまり、1cm角の鉛弾丸を秒速60メートルで打ち出す器具があれば、それは「銃砲刀剣類所持等取締法」で規制される「鉄砲」となるわけです。*
ちなみに、野球硬球ボールを時速140kmで投げると運動エネルギーは約110ジュール、野球硬式ボールの断面積(cm^2)の20倍は約760ジュールなので、野球硬球ボールを時速370kmで投げると、「銃砲刀剣類所持等取締法」で規制される「鉄砲」レベルの「人の生命に危険を及ぼし得る」殺人弾丸級という計算になります。銃刀法で取り締まられる「鉄砲」が「運動エネルギー」で決まるというのは、何だか面白いと思いませんか?
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* 秒速60メートルということは、時速220キロメートルですから、もしも鉛製の(計算しやすく)1cm角の弾丸を時速時速220キロメートルで投げることができる野球ピッチャーがいれば、それは「人の生命に危険を及ぼし得る」になります。