雑学界の権威・平林純の考える科学

 神奈川県の横浜中心部、横浜港近くに「関内」という駅があります。 この「関内」という名前・地名は、「(江戸幕府が決めた)関所に囲まれた”内側”の場所」だったからです。(参考:「日米修好通商条約で”関内”が開港地に選ばれた地形的な理由」と「”関所”の内側だから”関内”という理由」

 約150年前、徳川(江戸)幕府が日米修好通商条約をアメリカと結び、神奈川の港(今の関内あたり)が外国に対し開かれました。 その港近くは「一種の出島」として、他の場所とは隔離されました。 「出島」に行く・「出島」から日本に入るためには「関所」を通らなければならず、「関所に囲まれた”内側”」を「関内」と呼び、その外側を「関外」と呼んだのです。

 横浜「関内」が、かつては日本国内(関外)と関所を介して隔ていたというならば、その関内と関外の境界線に行ってみたくなります。
 …そこで、2012年の今日、横浜の街をテクテク歩いて、かつて「関内」を(かつて日本国内(関外)と隔ていた)関所跡に行ってみました。

 かつて、「ゆず」がストリートライブをしていた伊勢佐木町を海側に向かうと、JRの高架をくぐる少し前に、「吉田橋」がかかっています。この吉田橋に、1864年(文久4年)2月までは橋の海側に、それ以降(1872年ー明治4年までの8年間)は橋の伊勢佐木町側に「関所」がありました。 下の写真は、関内と関外の境界に立って、その両側すべてを撮影した写真です。

 吉田橋の上には、「吉田橋 関門跡」と彫られた石柱が立っています。 橋の上に立ち海側を眺めれば、馬車道や赤レンガ倉庫・山下公園へと道は伸びていて、振り返り眺めれば、伊勢佐木町・野毛町・寿町…といった、「日本側」の街並みが広がっています。

 約150年前の頃には、この橋の海側には世界へと続く道があり、山側には江戸から明治そして大正時代へと進んでいく日本が広がっていました。10メートル先の関内には海外が広がっていて、10メートルの背後の関外には変わりゆく日本があった…今日は、そんな横浜関内と日本国内=関外とを隔ていた関所跡に行ってみました。