雑学界の権威・平林純の考える科学

「ノルウェイの森」「桜の園」という題を聴くと、あなたは何を思い浮かべるでしょうか? 「ノルウェイの森」という題からは、村上春樹が書いた小説の題名を思い浮かべる人も多いかもしれません。 このタイトルは、英国のロックバンド”The Beatles”の曲「ノルウェーの森」に由来します。 そして、「桜の園」と聴くと吉田秋生が描くマンガ(や映画)を連想する人が多そうですが、この題名も、チェーホフが書いた演劇「桜の園」に由来します。 つまり、どちらの題名も外国語を翻訳した「日本語」です。

このふたつの題名は、両者とも「このタイトルは”誤訳”でないか」と言われたことがある・言われているものです。 「ノルウェーの森」の原題”Norwegian Wood”を考えると、一般的に”Wood”は「森」ではありません。 それは単なる「材木」に過ぎません。 だから、”Norwegian Wood”を素直に訳すならば、それは「ノルウェー材木/ノルウェイ製の家具」ということになります。 そしてまた、「桜の園」(原題は”Вишнёвый сад” ヴィーシニョーヴィ=桜 サート=果樹園)は、ロシアでは「桜は果実を収穫するための畑」であって(日本にある桜とは違い)「花を愛でる庭園」ではないという理由から、チェーホフの演劇の題名「ヴィーシニョーヴィ・サート(桜の園)」は「桜んぼ畑」とでも訳した方が良いのではないか、と言われていたこともあります。 どちらの題名も、確かに「誤訳」にも思えます。

その一方、これらの題名について「決して誤訳というわけではない」という声も多くあります。 たとえば、村上春樹は、”Isn’t it good, Norwegian Wood?”という言葉は、”Isn’t it good, knowing she would?”の語呂合わせだという説も紹介しつつ、「”Norwegian Wood”を、”ノルウェイの材木”といった風に訳すのは短絡的である」といったことを書いています(参考:「ノルウェイの森」誤訳問題について)。

そしてまた、宇野重吉(俳優である寺尾聰のお父さん)は「チェーホフの『桜の園』について」の冒頭に、スタニスラフスキーの著書に書かれたことを引用しつつ、およそこんな話を書いています。

チェーホフは、(没落貴族が「桜んぼ畑」を失う過程が描かれる)「ヴィーシニョーヴィ・サート(桜の園)」のタイトルを決めたとき、ヴィーシニョーヴィ・サートというロシア語発音の(アクセント箇所)変遷を意識しつつ、この演劇の題名は「収益をもたらす桜んぼ畑」でなく「(消え去る運命の)桜んぼが咲く場所」だと言った。ロシア語の「ヴィーシニョーヴィ」は、「桜の園」が舞台にする時代に前後して、アクセントが変わり、意味合いも変化していたのである。そして、チェーホフは「収益をもたらす桜んぼ畑」が「(消え去る)桜咲く場所」へと変わっていく「そんな時」を描いたのである。


そして、「(消え去る運命の)桜が咲く場所」を日本語にしようとするならば、それは「桜んぼ畑」ではなく「桜の園」の方が相応(ふさわ)しく、「桜の園」は誤訳どころかまさに絶品の名訳である、と書くのです。

 

違う気候や地理があり、(過去から現在に至る)異なる歴史背景があり、それらを反映した違う文化や言葉を持つ中で、誤訳か名訳か?という問題は一筋縄(ひとすじなわ)では行かない難しい話のようです。しかし、それと同時に、その「誤訳or名訳?」という謎を調べていくということは、違う場所・違う歴史の上に立つ、そして違う言葉を操る人たち・物語を理解する「巨大なパズル」なのかもしれません。

さまざまな「タイトル」を眺めるとき、これは(指し示したいこと)と違った誤訳なんだろうか、それとも(指し示す何か)をうまく描き出す名訳なんだろうか…そんなことを考えてみるのはいかがでしょうか。そんなことを考えると、その「タイトル」の向こうに、さらに奥深い何かが見えてくるかもしれません。

 毎日新聞の「地震予知」に関するコラム記事を読んでいると、「あれ?これはどういうことなんだろう?」と”疑問”を感じました。 疑問を感じたのは、(M7クラスの地震が発生する確率について書いているらしき)この部分です。

 平田によれば、「30年以内に98%」と「4年以内に70%」は同じである。

 頭に浮かんだのは、こんな「とても簡単なこんな理屈・疑問」です。 「もしも”地震が発生する確率は変わらないとしたら”、4年以内に70%(=1年間に地震が起きない確率が74%)だと15年ほどで99%に達してしまうはず。 しかし、それは”30年以内に98%”という話と矛盾してしまう。 すると、”地震が発生する確率は変わらないとしたら”という仮定が間違っていて、”地震が発生する確率は変わる(しかも年を経るにしたがって急激に確率が低くなる)”ということになる。 それでは、なぜ、”地震発生確率が刻々下がっていく”なんてことが起きるんだろう?」

 その後、東大地震研の背景説明を読み、”30年以内に98%””4年以内に70%”といった数字は、「”東北地震による余震”としてM7クラスの地震”が(1回以上)起きる確率」であることを知り、「本震の後に起きる余震は、時間が経つにしたがって、どんどん少なくなるな」「東北地震の余震に限定した話であれば、”地震発生確率が刻々下がっていく”のは当たり前だな」と納得しました。

 さて、「納得する」と、多少なりとも「自分でもやってみたくなる」ものです。 そこで、「本震から○×年後までの期間に、余震によるM7クラスの地震が1回以上する発生確率推移」を(東大地震研記事を参考に)グーテンベルグ・リヒターの式・改良大森公式を用いて、(雑な変数設定の下に)描いてみました。 それが下に貼り付けた「横軸=年数、縦軸=M7以上の余震が(その時点までの間に)1回以上起きるパーセンテージ」のグラフです。 このグラフを眺めるときの注意は、このグラフは「○×年後にM7以上の余震が起きる確率」ではなく「M7以上の余震が(その時点までの間に)1回以上起きる確率」だ、ということです。 「○×年後にM7以上の余震が起きる確率」は、このグラフの「傾き」が「おおよその目安」になります。 だから、「○×年後にM7以上の余震が起きる確率」は、実は急激に低下しています。 「実は急激に低下」と書きましたが、それは「余震の話」なのですから当たり前であるわけです。

 ところで、毎日新聞コラム記事の次の一節を読み、少し考え込んでしまいました。

だが、人間、30年ならまだ先と侮り、4年と聞けば驚く。読売は公表ずみのデータを鋭角的に再構成し、「4年以内」を強調したことで反響を呼び、他のマスコミも追随せざるを得なかった。

 この部分は、「例が少し上手くない」と思います。 (短い時間で急激に少なくなる)余震の話であれば、「余震がたくさん起きている間は、大きな余震も起きるかもしれないから、気をつけましょうね」と伝えたいのであれば、 「長期間」よりは「短い期間」の話にしておくのが、自然であり当然でしょう。 だから、「人間を驚かせる」ためだけでなくとも、短い期間に対する数字を使いたくなります(たとえば、上の計算結果をもとにして、私がコラム記事を書くのであれば、「20ヶ月以内にM7級地震が起こる可能性が5割以上1?…信じるも信じないもあなた次第です」といった信頼度ゼロ・パーセントのキャッチフレーズを使うだろうと思います)。「余震に関する話」と「30年ならまだ先と侮り、4年と聞けば驚く」という言葉を並べるのは、少々無理があるように思います。

 しかし、人間が「どのくらい先の未来の、どのくらいの危険性」を重要視するか・気にするのだろうか?ということについては、とても考えさせられます。  余震の話でなければ、ごく近い未来、たとえば明日・明後日・明明後日…に地震が起きる確率は、決して高くないでしょう。 だから、そんな「小さな確率」は無視されることでしょう。 それと同時に、「無視」できそうな確率が長期間積もった後にそびえる「500年先の99%」も、あまり気にならないものです。 …「あまりに先の未来」も「あまりに小さな確率」も、私たちは気にしません。 そして、そういう「感覚」であるからこそ、私たちは毎日を気にせず・前(未来)に進んでいくことができたりもします。

 「私たちを動かす”気持ち”」は「どのくらい先の未来の(そこに至るまでに積もっていく)・どのくらいの危険性」を「どのくらい重要だ」と考え「気にする」ものでしょうか。その「気にする度合い」と「他のメリット・満足(不満足の解消)」を天秤にかけて、私たちは毎日動きます。地震も原発事故、狂牛病もレバ刺し/ユッケ…そんな「未来の危険性」を、私たちは一体どう感じているのでしょうか? 

  • Page 2 of 2
  • <
  • 1
  • 2