雑学界の権威・平林純の考える科学

 毎日新聞の「地震予知」に関するコラム記事を読んでいると、「あれ?これはどういうことなんだろう?」と”疑問”を感じました。 疑問を感じたのは、(M7クラスの地震が発生する確率について書いているらしき)この部分です。

 平田によれば、「30年以内に98%」と「4年以内に70%」は同じである。

 頭に浮かんだのは、こんな「とても簡単なこんな理屈・疑問」です。 「もしも”地震が発生する確率は変わらないとしたら”、4年以内に70%(=1年間に地震が起きない確率が74%)だと15年ほどで99%に達してしまうはず。 しかし、それは”30年以内に98%”という話と矛盾してしまう。 すると、”地震が発生する確率は変わらないとしたら”という仮定が間違っていて、”地震が発生する確率は変わる(しかも年を経るにしたがって急激に確率が低くなる)”ということになる。 それでは、なぜ、”地震発生確率が刻々下がっていく”なんてことが起きるんだろう?」

 その後、東大地震研の背景説明を読み、”30年以内に98%””4年以内に70%”といった数字は、「”東北地震による余震”としてM7クラスの地震”が(1回以上)起きる確率」であることを知り、「本震の後に起きる余震は、時間が経つにしたがって、どんどん少なくなるな」「東北地震の余震に限定した話であれば、”地震発生確率が刻々下がっていく”のは当たり前だな」と納得しました。

 さて、「納得する」と、多少なりとも「自分でもやってみたくなる」ものです。 そこで、「本震から○×年後までの期間に、余震によるM7クラスの地震が1回以上する発生確率推移」を(東大地震研記事を参考に)グーテンベルグ・リヒターの式・改良大森公式を用いて、(雑な変数設定の下に)描いてみました。 それが下に貼り付けた「横軸=年数、縦軸=M7以上の余震が(その時点までの間に)1回以上起きるパーセンテージ」のグラフです。 このグラフを眺めるときの注意は、このグラフは「○×年後にM7以上の余震が起きる確率」ではなく「M7以上の余震が(その時点までの間に)1回以上起きる確率」だ、ということです。 「○×年後にM7以上の余震が起きる確率」は、このグラフの「傾き」が「おおよその目安」になります。 だから、「○×年後にM7以上の余震が起きる確率」は、実は急激に低下しています。 「実は急激に低下」と書きましたが、それは「余震の話」なのですから当たり前であるわけです。

 ところで、毎日新聞コラム記事の次の一節を読み、少し考え込んでしまいました。

だが、人間、30年ならまだ先と侮り、4年と聞けば驚く。読売は公表ずみのデータを鋭角的に再構成し、「4年以内」を強調したことで反響を呼び、他のマスコミも追随せざるを得なかった。

 この部分は、「例が少し上手くない」と思います。 (短い時間で急激に少なくなる)余震の話であれば、「余震がたくさん起きている間は、大きな余震も起きるかもしれないから、気をつけましょうね」と伝えたいのであれば、 「長期間」よりは「短い期間」の話にしておくのが、自然であり当然でしょう。 だから、「人間を驚かせる」ためだけでなくとも、短い期間に対する数字を使いたくなります(たとえば、上の計算結果をもとにして、私がコラム記事を書くのであれば、「20ヶ月以内にM7級地震が起こる可能性が5割以上1?…信じるも信じないもあなた次第です」といった信頼度ゼロ・パーセントのキャッチフレーズを使うだろうと思います)。「余震に関する話」と「30年ならまだ先と侮り、4年と聞けば驚く」という言葉を並べるのは、少々無理があるように思います。

 しかし、人間が「どのくらい先の未来の、どのくらいの危険性」を重要視するか・気にするのだろうか?ということについては、とても考えさせられます。  余震の話でなければ、ごく近い未来、たとえば明日・明後日・明明後日…に地震が起きる確率は、決して高くないでしょう。 だから、そんな「小さな確率」は無視されることでしょう。 それと同時に、「無視」できそうな確率が長期間積もった後にそびえる「500年先の99%」も、あまり気にならないものです。 …「あまりに先の未来」も「あまりに小さな確率」も、私たちは気にしません。 そして、そういう「感覚」であるからこそ、私たちは毎日を気にせず・前(未来)に進んでいくことができたりもします。

 「私たちを動かす”気持ち”」は「どのくらい先の未来の(そこに至るまでに積もっていく)・どのくらいの危険性」を「どのくらい重要だ」と考え「気にする」ものでしょうか。その「気にする度合い」と「他のメリット・満足(不満足の解消)」を天秤にかけて、私たちは毎日動きます。地震も原発事故、狂牛病もレバ刺し/ユッケ…そんな「未来の危険性」を、私たちは一体どう感じているのでしょうか?