煙突がはき出す煙は風に沿って流れていきます。
そして、煙突から出た煙と同じように、空に浮かぶ雲も風に乗り流れていきます。
そんな「当たり前のこと」を思い出しつつ、(下に貼り付けた)動画を観て下さい。
そこには、「不思議な景色」が映し出されていることに気づくはずです。
…「上空に浮かび流れる雲」と「煙突からモクモクとはき出される煙」が、なぜか正反対の向きへと動いているのです。
もちろん、煙突から出た煙が「風に逆らって動く」わけもありません。
煙突が立っている地上近くの風向きと、(雲が浮かぶくらいの高さの)上空の風向きが逆だ、というだけのことです。
…しかし、なぜ地上近くの風向きと上空の風向きが違うのでしょうか?
この動画は東京湾の海沿い(海の上)で撮影されたものですが、そうした海岸沿いでは「海陸風(かいりくふう)」という風が吹いています。
地上近くでは、昼は海から陸へと風が吹き、夜は陸から海へと風が吹いています。
そして、その上空では(地上とは)逆向きの風が吹いているのです。
昼と夜の海水と陸上の温度の違いが、陸上と海上での上昇気流や下降気流を作り出し、それが地上と上空の風向きが逆…という海陸風を生み出すのです。
実は、この「(東京湾の)地上と上空の風向きの逆転現象」は、近年ますます増大している!?という研究報告があります(参考:「
沿岸部における都市圏の拡大がヒートアイ ラン ドの形成」)。
「東京湾沿いの地面がコンクリートに覆われ・気温が上がり、…つまりヒートアイランド現象が進んだことで、東京湾沿いの「海陸風」が激しくなっている!?というシミュレーション報告がされているのです(下の画像は「
沿岸部における都市圏の拡大がヒートアイ ラン ドの形成」図.9,10ー東京大手町から三浦半島の観音崎までの高さごとの風向きを昔と今とで計算した結果ーから)。
『昔の横浜・東京がいつも夜霧に包まれていた「理由」とは?』では、「日本が発展し、都会の地面がコンクリートに覆われ・気温が上がったことで、東京湾から夜霧が消え去った」という話を書きました。
それと同じように、今日書いた話は、「地上と上空では、風向きが180°違っている」という「東京湾近くの日常の景色」は、「都市化」によって加速されているかもしれない!?という話でした。
毎日新聞の「地震予知」に関するコラム記事を読んでいると、「あれ?これはどういうことなんだろう?」と”疑問”を感じました。
疑問を感じたのは、(M7クラスの地震が発生する確率について書いているらしき)この部分です。
平田によれば、「30年以内に98%」と「4年以内に70%」は同じである。
頭に浮かんだのは、こんな「とても簡単なこんな理屈・疑問」です。
「もしも”地震が発生する確率は変わらないとしたら”、4年以内に70%(=1年間に地震が起きない確率が74%)だと15年ほどで99%に達してしまうはず。
しかし、それは”30年以内に98%”という話と矛盾してしまう。
すると、”地震が発生する確率は変わらないとしたら”という仮定が間違っていて、”地震が発生する確率は変わる(しかも年を経るにしたがって急激に確率が低くなる)”ということになる。
それでは、なぜ、”地震発生確率が刻々下がっていく”なんてことが起きるんだろう?」
その後、東大地震研の背景説明を読み、”30年以内に98%””4年以内に70%”といった数字は、「”東北地震による余震”としてM7クラスの地震”が(1回以上)起きる確率」であることを知り、「本震の後に起きる余震は、時間が経つにしたがって、どんどん少なくなるな」「東北地震の余震に限定した話であれば、”地震発生確率が刻々下がっていく”のは当たり前だな」と納得しました。
さて、「納得する」と、多少なりとも「自分でもやってみたくなる」ものです。
そこで、「本震から○×年後までの期間に、余震によるM7クラスの地震が1回以上する発生確率推移」を(東大地震研記事を参考に)グーテンベルグ・リヒターの式・改良大森公式を用いて、(雑な変数設定の下に)描いてみました。
それが下に貼り付けた「横軸=年数、縦軸=M7以上の余震が(その時点までの間に)1回以上起きるパーセンテージ」のグラフです。
このグラフを眺めるときの注意は、このグラフは「○×年後にM7以上の余震が起きる確率」ではなく「M7以上の余震が(その時点までの間に)1回以上起きる確率」だ、ということです。
「○×年後にM7以上の余震が起きる確率」は、このグラフの「傾き」が「おおよその目安」になります。
だから、「○×年後にM7以上の余震が起きる確率」は、実は急激に低下しています。
「実は急激に低下」と書きましたが、それは「余震の話」なのですから当たり前であるわけです。
ところで、毎日新聞コラム記事の次の一節を読み、少し考え込んでしまいました。
だが、人間、30年ならまだ先と侮り、4年と聞けば驚く。読売は公表ずみのデータを鋭角的に再構成し、「4年以内」を強調したことで反響を呼び、他のマスコミも追随せざるを得なかった。
この部分は、「例が少し上手くない」と思います。
(短い時間で急激に少なくなる)余震の話であれば、「余震がたくさん起きている間は、大きな余震も起きるかもしれないから、気をつけましょうね」と伝えたいのであれば、
「長期間」よりは「短い期間」の話にしておくのが、自然であり当然でしょう。
だから、「人間を驚かせる」ためだけでなくとも、短い期間に対する数字を使いたくなります(たとえば、上の計算結果をもとにして、私がコラム記事を書くのであれば、「20ヶ月以内にM7級地震が起こる可能性が5割以上1?…信じるも信じないもあなた次第です」といった信頼度ゼロ・パーセントのキャッチフレーズを使うだろうと思います)。「余震に関する話」と「30年ならまだ先と侮り、4年と聞けば驚く」という言葉を並べるのは、少々無理があるように思います。
しかし、人間が「どのくらい先の未来の、どのくらいの危険性」を重要視するか・気にするのだろうか?ということについては、とても考えさせられます。
余震の話でなければ、ごく近い未来、たとえば明日・明後日・明明後日…に地震が起きる確率は、決して高くないでしょう。
だから、そんな「小さな確率」は無視されることでしょう。
それと同時に、「無視」できそうな確率が長期間積もった後にそびえる「500年先の99%」も、あまり気にならないものです。
…「あまりに先の未来」も「あまりに小さな確率」も、私たちは気にしません。
そして、そういう「感覚」であるからこそ、私たちは毎日を気にせず・前(未来)に進んでいくことができたりもします。
「私たちを動かす”気持ち”」は「どのくらい先の未来の(そこに至るまでに積もっていく)・どのくらいの危険性」を「どのくらい重要だ」と考え「気にする」ものでしょうか。その「気にする度合い」と「他のメリット・満足(不満足の解消)」を天秤にかけて、私たちは毎日動きます。地震も原発事故、狂牛病もレバ刺し/ユッケ…そんな「未来の危険性」を、私たちは一体どう感じているのでしょうか?
「霧」と聞くと、どんな場所を連想するでしょう。
おそらく、それは、(たとえば)標高が高く・気温が低い高原などで「あなたが暮らす街ではない」のではないでしょうか?
しかし、何十年も前、横浜や東京という街は、一年のうちのかなりの日数「霧」に覆われていました。
夜になると白い霧が、時に不気味に、あるいは、時にロマチックに街を覆い出す…横浜や東京という街は、そんな場所でした。
だから、昔の懐メロ(懐かしのメロディ)には「夜霧よ今夜も有難う」「東京夜霧」「夜霧の第二国道」といった、タイトルの歌が、多く残っています。
けれど、そんな「霧に覆われた街」を、最近は想像することが難しくなってしまいました。
下のグラフは、1930年から2010年までの「東京・横浜における霧日数変化」です。
かつては、一年間のうち、3ヶ月(90日)近くの日、つまり数日に一度は「街が霧に覆われていた」のです。
確かに、昔は「霧が多かった」ということがわかります。
東京と横浜における霧日数の経年変化(近藤純正ホームページ”からの引用)
そしてもうひとつ、このグラフを眺めるとわかることがあります。
それは、最近は「霧」が大幅に減り、ほぼなくなってしまった、ということです。
かつて「霧」に覆われていた東京や横浜の街は、もう「霧」とは無縁の街になってしまったのです。
東京や横浜から「霧」が消えた理由は、「大気汚染の減少」と「気温の上昇(相対湿度の低下)」だと言われています。
「寒い」と霧が発生しやすいものです。
そして、「大気が汚染され、空気が汚れ、もやがかっている」と、それはすなわち”霧”と判断されてしまいます(霧とは目視視認距離が1km以下のことを指すのです)。
だから、都会の気温がまだ低く(ヒートアイランド現象が起きず)、そして、日本が発展する途上で大気汚染が激しかった時代には、「霧」が発生しやすかった、というわけです。
東京や横浜を「霧」が覆うことが、今や珍しくなってしまいました。
その理由は、日本の都会が発展する過程でコンクリートに覆われて・気温が上がっていったこと、そして、日本が発展し終わり・大気汚染が消えていったこと、なのです。
東京や横浜の街を霧が頻繁に覆っていた昔の時代…東京や横浜から霧が消えてしまった今の時代…あなたは、どちらの街を生きたいと思いますか。どちらの時代が好きですか?